人の顔面に何か投げるならプッチンプリンが最適である3つの理由
ある初夏の朝。騒がしい東京の夜は落ち着きを取り戻し静寂が包み込む。
朝日が私の崩れきった生活習慣を正そうと降り注ぐ。
空気がおいしいとは良く言ったものだ。東京で美味いのは、飯だけだと思っていたがそうではないようだ。東京を満喫するつもりはなかったが、それは難しい。
スタバ開店の7時まで散歩をすることにした。
美味い空気、運動による血液の循環。脳に血が回り過ぎると素晴らしいアイデアが出る。
「人の顔面にものを投げるならプッチンプリンがいいのでないかとかね」
何も突然、プッチンプリンを考えたわけでない。私は一般的な思考の持ち主ゆえ、考えることができるのは、お金持ちになりたいという具体性のない小学生のような夢だけだ。
ちなみにプリンは好きだ。
朝日を浴びながら散歩をしていると人間、真面目なことを考えてしまうものだ。社会や人生のこと。
そして、愛について!!!
かのマザー・テレサは言った「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」と
それに従うと「暴力の反対は平和でない。プリンだ」
もう、僕はプリンのことしか考えられない体になっていた。東京の朝は怖い
本記事は、暴力の反対にプリンがあるということを言いたいのでない。話を進めるために「暴力の反対はプリン」であることに一度納得してもらいたい
プリンについて深く考察することになった私はある説を発見する。
そう、プッチンプリンを投げても人は怒らないのではないかと。
そして、どうせ投げるなら顔面がいいと。
ああ、人の顔面にプリンを投げたい。投げたい。投げたーい。
そうしている間に時間は過ぎ、散歩が終わってしまった。プリン的思考の終了である。
ところで、東京にはRuby(プログラミング言語)の勉強会に参加するために訪れた。
どうせなら、リモート先でRubyを書いて高い意識で勉強会に参加しようと無理を言って2週間オフィスに滞在させてもらうことになった。
2週間の滞在中に、昔のインターンで一緒になった人達と集まることになった。
この集まりがこの記事を書くことになった元凶である。
インターンというのは、どこに行っても優秀な若者が集まっているものだ。そして、優秀なものは、高学歴である確率が高い。この後、右を見ても左を見ても高学歴の晩餐会に参加しまうことになるのだ。
高学歴という肩書きを持つ多くの者は、サークルで飲み会に行く途中の退屈でどうしようもない時間にミュージカルを歌ったり、塩素で汚れを落とすことに夢中になり服を一つダメにするといったことを行わない、理解に苦しむ生態系を示す生き物だ。怖い怖い。
高学歴が集う晩餐会、当日。
東京に滞在している理由や近況報告などを行い、気が緩んだその時
うっかりプリン発言をしてしまった。
「人の顔面に何か投げるならプッチンプリンがいいよねー」
凍りつく空気。どうにか、高学歴の方々はその真意を汲み取ろうとする。
日本最高の頭脳大学に所属する友人が理由を問う。
なぜ、プッチンプリンであるべきかを。
冷静になり、論理的に話を組み立てなければ、論破される。
雲行きが怪しくなってきた。
プリンと平和の関係、またプッチンプリンがパーティーグッズとして有効であることを証明する。
そんなことが答案用紙に名前と簡単なクイズの回答を書くだけで入学することのできるFラン大学生に可能なのだろうか
結果は自明だ。無理だった。
しかし、このままで終わるわけにはいかない。負けっぱなしは嫌なのだ。
自分の努力不足を学歴や環境によって言い訳するのは、バカのやることだ。
アホであることは、認めるが腐ってもバカにはなりたくない。
次に説明する機会があるかもしれない。その時は、プッチンプリンについて深い考察をして納得させたい。
成長だ。自己成長なのだ。失敗は、成功の元。この失敗を活かさなければ、生きる道は途絶えるのだ。
とりあえず、思考を整理しよう。プッチンプリンとは何か。プリンとは?
なぜ、パイよりプッチンプリンなのだ?
3つの理由がある。
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